何故こう言う話をしなくてはならないのか。。。

あまり考えたくはないのですが、10歳と言う5年生の我が子と何故ここまでの会話になるのか。。を考えると、ちょっとなぁとも思いますが。


今日の寝る前に、息子が言って来ました。


自分の得手不得手。


苦手な事、特異な事。


ADHDとしての自分。
もし、ADHDでなかったとしたらどんな自分がいたんだろう。


今の自分の事をどう思っているのか。。。などと言う事。

1年生の時の担任が、あまりにも自分の事を知り過ぎていて、頑張る事に慣れていて、子供らしさがない。。。


これが良いとか悪いとかでないけど、もう少し子供らしさがあれば、今考えなくても良い事を考えずにいられたら、もっと楽な生き方が出来るような気がする。


こう言う話しがあったなぁと思いつつも、今の息子はその1年生の時に比べて格段に自分の事を知っています。


そして、その上で今自分にとって必要な事、何をすべきか。。と言う事も一緒に考えられます。


お勉強云々と言う事ではなく、ADHDについてと言う事。


多分、我が家では私の方が息子に付いていけてなくって、右往左往する事が多々あります。


その対応に苦慮すると言うよりも、親としてどうすればいいのか?と思う事が多々あるんですよね。


でも、何だろう。


はたから見たら、私は厳し過ぎる親として見てるかも知れないけど、実際に厳しいです。


ケースバイケースではありますけど、言った事は守ってもらいます。
当たり前の事は当たり前の事としてやってもらいます。
出来ない事をADHDだからね〜とか、障害のせいになんかしません。


息子は、それがとても嬉しいんだとか。


最近、3文字熟語の勉強をしていて知ったそうです。


「免罪符」と言う言葉を。


特別に許される事柄、特別に許される理由がある、特別に。。。。


たまに、息子も今ではネットと言う世界で情報を収集したりもしますので、おおよそ色んな事を今まで以上に知っていたりもします。


なので、こう言うブログでも何でも書いてると、息子が見てどういう風に考えるんだろう?と思う事もあります。


でも、息子が今たまに考える事は、発達障害のせいで支援される事や、あたかも発達障害と言う言葉を、免罪符代わりに使ってしまっている事があると言う事をとある所で見たそうです。


それを見た時に、息子はとてもうまく言葉には表す事が出来ないくらいのショックを覚えたそうです。


なので、それは違うと言うか、使い方次第という意味合いで息子とも話をしました。


息子も、困っている人や、自分の宮崎のじいちゃんみたいに車いすに乗っている人を見たら、自然と手を貸したくなると言う善意の気持ちがあるとすればそれは支援であり、それは車いすに乗っている人が、手を貸してもらって当然だと思っている人はきっと多くはなく、それを免罪符代わりに使っているとしたら、それは間違いであると言う事。


でも、時によってはその支援をお願いしなくてはならない時もあって、それを恥ずべく事だと思う必要はなく、出来る限りは自分で頑張るけれども、人間だれしも自分だけの力だけで生きているわけでなく、支援と大げさに言わなくても、周りから助けられたり助けたりしながら生きている事。


相互扶助と言う言葉がある事も教えてみました。


今の息子は、生存競争に必至であり、相互扶助と言う事を考えてない事。


実は私も、若い頃はどちらかと言うと、人に頼る事が嫌いな人で、自分の力で!自分の力で!!と粋がって生きて来た人でもあります。


それが正しい事なのか、間違いなのかと言う事はさておいても、息子にとってはこれから長い年月を生きて行く事を考えると、何かしら周囲と関わりを持ち、障害云々ではなく、助け助けられの相互扶助の考えをもっと持った方がいいとも思っています。


誰かを助ける事も必要。
誰かに助けられる事も必要。


でも、なるべく自分で出来る事は精一杯自分で頑張ってみながら、無理をせず。


そうしたら、息子から言われました。


程度の問題と、段階があるよね?と。。。


はぁ。。。さようでございます。


じゃぁ、その段階と程度とやらを、また明日にでも考えてみましょう^^
と言う事で、今日は寝てもらいました。


一生懸命に自分の生き方を模索しているようにも思えた今夜。
大丈夫!だいじょうぶだから!!


そう言う風に考えたり出来るうちは、きっと良い方向へ転がっていくよ^^


私なんて、子供の頃にそんな事考えた事もなかったなぁ。。
これが子供らしくないと息子が言われる所以なのかも知れませんが。


でも、仕方ないですね。
生きにくい人生を送るべく何かを背負って生まれて来た宿命なのかも知れません。